小学校の頃から周りからプロになる選手と言われていた鈴木誠也選手。
地元でも有名な選手だったようです!
現在の球団は広島東洋カープで、ポジションは主に外野手です。
内野手の経験もあり、高校時代のポジションは内野手、外野手でもなく「投手」だったとか!
高校時代に投手だった鈴木誠也選手は、投手として以外の部分も優れており、
投手としてではなく、野手としてプロ野球でドラフト指名をもらったようですね。
そんな鈴木誠也選手は高校で甲子園出場しているのか、高校時代のポジションは投手だったのかについて調べてみました!
鈴木誠也のプロフィール
➡カープ鈴木誠也の打席で中日大島がホームスチール未遂「ノーサインです」【オールスター2021】https://t.co/hDhfTQGTj7#大島洋平「死ぬかと思いました。最初から狙っていた。ノーサインです。原監督に『怪我しなくてよかったね』と言われた。他の選手は『四球だったらセーフでしたね』という感じ」 pic.twitter.com/pD0HygJDtd
— かーぷぶーん⊂( ●▲●)⊃ (@carp_buun) July 17, 2021
参考:広島東洋カープ
鈴木誠也の出身高校はどこ?
鈴木誠也選手の高校は、東京都の二松学舎大学附高等学校です。(以下省略:二松学舎大附高)
野球の強豪校です。プロ野球選手も何人も輩出しています。
甲子園には、春5回、夏3回出場しています。
しかも甲子園では一度決勝に進出しており、準優勝の経験がある学校です!
鈴木誠也選手が二松学舎大附に進学した理由には、鈴木誠也選手の父が関係しているようです。
鈴木誠也選手の父と、二松学舎大附高の監督、市原勝人監督は中学時代からの友人であり、
鈴木誠也選手が小さい頃から二松学舎大附高の練習を見に行っていて、市原勝人監督も知っている存在だったそうです。
小学校の頃から市原勝人監督から「高校生になったらうちにおいで」と言われていた鈴木誠也選手。
鈴木誠也選手は小学生の時からすでに周りからプロに行く選手だと思われており、地域でも有名な選手でした。
小学校3年生から本格的にシニアで野球を始めた時から、すでに身体も大きく、他の子たちに比べて、身体能力も優れていたようです。
「入団当初から体も大きくて、足も速いしボールも速い。同年代の子たちと比べても頭一つ、二つ抜きんでていました。下級生のころから上級生の試合にも出場していましたし、地域でもすぐに有名になったんじゃないかな」
引用:REALSPORTS
そのため、中学の時にはたくさんの高校から声がかかり、東京都内だけではなく都外からも誘われていたそうです。
その数は40校だったとか!
それでも鈴木誠也選手は、市原勝人監督の言葉通り、二松学舎大附高への進学を決めていました。
市原勝人監督も鈴木誠也選手が入学した当初から、「プロになる存在」だと思ったそうですよ。
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二松学舎大附高は、学校の校舎は東京都千代田区にありますが、野球部のグラウンドは千葉県柏市の大学の敷地内にあります。
二松学舎大附高校の野球部の選手たちは、学校とグラウンドの移動に時間がかかるため、練習時間も限られている環境です。
野球部の市原勝人監督は、20年以上、二松学舎大附高校野球部の監督をされており、
指導で大切にしていることは、「やらされる練習ではなく、選手が自ら進んでやる練習」だそうです。
投手を例にすると、強制的な投げ込みや球数を指定することもなく、フォームに関しても指導者が一方的にこう投げるようにと指導することはないようです。
もちろんトレーニングメニューもあるし、どう見ても直した方が良いとわかることはしっかりと伝えていますが、
基本的に主役は選手本人であり、選手が自ら考えることを大切にされていると感じました。
「自分で考えて投げることで覚えることが沢山あります。調整方法もこちらが指示をするのではなく、自分に合った調整方法を見つけた方がいい。大江(巨人)は1日200~300球数投げる時もありました。ただ、ケガをすることはありませんでした。指導者が球数を指定すると選手は痛いのに投げてしまうものです。痛いまま投げたらピッチングが楽しくなくなってしまいます。自分の気持ちが乗ってくれば自然と球数を投げるようになりますよ」。
引用:タイムリーウェブ
素敵な監督さんですね!
東京ヤクルトスワローズの山田哲人選手の母校、大阪府の履正社高等学校の岡田龍生監督と同じような考え方ですね!⇩
鈴木誠也の高校時代のポジションは投手だった?!
鈴木誠也選手は現在、プロ野球では外野手ですね。
なので私の勝手なイメージは高校時代も外野手だったか、もしくは内野手だったのかなと思っていました。
調べてみると、鈴木誠也選手の高校時代のポジションは投手でした!
高校時代の球速は最速148km/h。
一塁手や外野を守ることもあったようですが、エースで4番でした。
鈴木誠也選手は高校1年の夏からレギュラーに。
そして秋からチームのエースになりました。
中学時代にはすでにピッチャーで有名な選手となっており、高校1年生の秋からすでにプロ野球のスカウトの目にも留まっていたようです。
同級生でバッテリーを組んでいた捕手の選手も、鈴木誠也選手とバッテリーが組めることを喜んでいました。
二松學舍でバッテリーを組んでいた同級生の捕手・吉田さんは「中学から有名な選手で、ずっと一緒にバッテリーを組みたいなと思っていたんです」と同世代からも羨望されていた誠也の凄さも明かしてくれた。
引用:文春オンライン
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高校3年生の最後の夏には「東東京大会ナンバーワン投手」と称されていたようです。
鈴木誠也選手は投手としてだけではなく、足も速く走力があることや打者としても注目されていて、
広島東洋カープのスカウトも当初は投手として見ていたのが、走力や打者としての能力にも目を奪われるようになったそうです。
「50メートルが5秒台。走力もある。体に力があるのでバッティングではボールを飛ばす。一塁もやっていましたが、野手としても面白いなとは考え始めました」
引用:THE PAGE
2012年のドラフトで、2位指名で広島東洋カープに入団。
ポジションは内野手としてでした。
高校では最速148キロの剛腕エース。だが打撃面で頭角を現し「3割30本塁打、30盗塁できる選手になりたい」と野手でのプロ入りを決めた。外野と一塁は守れたが、現在は遊撃でノックを続けており、苑田スカウト部長も「どこでも出られる選手になってほしい」と類いまれなセンスに期待をかけた。
引用:日刊スポーツ
投手もできて、内野と外野どちらもこなす鈴木誠也選手。
打者としても素晴らしく、本当にすごい選手ですね!
鈴木誠也は高校で甲子園出場している?!
鈴木誠也選手の高校で甲子園には出場していません。
夏の東東京大会では準決勝まで進んでいます。
打者としては高校通算43本の本塁打の成績でした。
・第92回夏の東東京大会で3回戦敗退
◎高校二年生2011年
・第93回夏の東東京大会で準決勝で敗退。ベスト4!
◎高校三年生2012年
・第94回夏の東東京大会では準々決勝で敗退
鈴木誠也選手は高校1年の夏からレギュラーとなり、秋からはエースで4番。
鈴木誠也選手が高校2年生の夏、東東京大会で準決勝に進出!
結果は関東一高校に0-7で8回コールド負けとなりましたが、ベスト4!
鈴木誠也選手は4月下旬に練習試合で右太ももの肉離れをしてしまい、その影響がまだある中でテーピングをしながらの登板でした。
この年、日米親善高校野球大会の都選抜メンバーに選ばれ、ロサンゼルスでの試合に行っているようです。
鈴木誠也選手が高校3年生の最後の夏。
東東京大会の準々決勝で成立学園と対戦し、6-8で敗れました。
成立学園は今大会で優勝し、甲子園に出場しました。
鈴木誠也選手の同世代には大谷翔平投手(大リーグ)や藤浪晋太郎投手(現在阪神タイガース)がいて、甲子園に出場しています。
その活躍を見ていたという鈴木誠也選手。
どうやって追いつき、どうやって追い越すかを常に考えていたようです。
どうやって近づき、どうやって追い越せるか。同じことをしていても何も始まらない。プロ野球選手になった今もそうですが、ライバルたちに負けたくないという気持ちでした。
引用:朝日新聞
甲子園に行けなかったことは悔しかったことだと思いますが、
鈴木誠也選手は高校野球を通して「甲子園に行く以上に大切なことを学んだ」と振り返っていました。
長いシーズンを戦ううえで、チームが勝っていれば何事も前向きな気持ちになりますし、自分の結果もついてくるのかなと思います。「チームを大切にする」は市原勝人監督から繰り返し指導してもらったことです。その気持ちは今も同じです。プロである以上、結果が求められるけど、それよりも大事なことだと思います。
引用:朝日新聞
自分一人で戦っているわけではなく、助けられて助けて、チームで戦っている。
「チームを大切にする」ことを高校野球を通して学び、感じ、体験して、
プロ野球選手として活躍する今も大切にしていることの一つのようですね!
鈴木誠也選手のように思ってくれるチームメイトがいると心強く、何かとってもいいなっと思いました(^^)
まとめ
以上、鈴木誠也の高校や高校時代の成績やポジション、甲子園には出場しているのかについてでした。
小学校の頃から注目を浴び、高校時代は甲子園に出場はできなかったものの、
投手以外の部分での能力を評価され、プロ野球の選手となり今では日本代表の侍ジャパン!
これからの活躍も楽しみに応援しています!