今ではスポーツキャスターやタレントとしても活躍中の古田敦也さん!
東京ヤクルトスワローズ一筋の名捕手でした。
シーズンの盗塁防止立の日本記録や首位打者を獲得したりと逸材の選手だった古田敦也さん。
引退前は選手兼監督も務め、野球界のレジェンドですよね!
今回は、そんな古田敦也さんの出身高校や大学、高校大学の野球の成績やドラフト漏れとは一体何があったのかについて調べていました。
古田敦也のプロフィール
古田敦也さんの簡単なプロフィールを紹介します。
引用:exciteニュース
2022年10月現在の年齢57歳の古田敦也さん。
プロ野球界を引退後は、タレントとしても活躍しています。
私は以前、古田敦也さんの講演会に参加したことがあります!
とある企業セミナーで、特別企画のような形で古田敦也さんがいらっしゃっていました。
とってもかっこよく、身体もテレビで見ているよりもがっちりした印象を受けました。
手が大きかった記憶もあります。
テレビを通してみているより、直接の方がとってもかっこよかったです(^^)
古田敦也の経歴
古田敦也さんの簡単な経歴を紹介します。
キャッチャー古田の誕生
古田敦也さんは小学校3年生のときに地元の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入りました。
古田さんの父のすすめだったそうです。
入った当初にポジション決めの話し合いが行われたました。
その際に友人がキャッチャーに古田さんを推薦!
体形がちょっと大きめだったことから、キャッチャー向きと思っての推薦だったみたいです^^
監督からできるのか聞かれた古田少年は、勢いで「はい!」と返事をしてしまいました。
「キャッチャー古田」さんが誕生した瞬間でした。
入部早々、ポジションを決めるための話し合いで、監督が「キャッチャーをやりたい人は?」とみんなに声をかけました。その途端、友人が「古田君ができます!」と。「体型が太目だからキャッチャー」という発想だったようなのですが、監督に「できるのか?」と念押しされ、勢いで「はい!」と答えてしまって。これが「キャッチャー古田」誕生の真相です。
引用:子ども応援便り
古田敦也の学生時代
古田敦也さんは、子供の頃からプロ野球選手になることを夢みていましたが、中学生になると現実的には難しいだろうという考えが出てきます。
プロ野球選手になりたいという夢はもっていましたが、プロ野球選手になれるとは思っていなかったそうです。
それでも、中学時代にはキャッチャーとして注目もあったそうで、強豪校の数校から声がかかっていたようです!
でも、強豪校に入っても部員数も多いなか自分がレギュラーになってプレーができるのか。
そんな想いを抱き、強豪校ではなく自宅近くの公立高校に進学します。
高校時代に野球部に所属してはいましたが、甲子園も目指してはいても、現実的には厳しいという思い。
野球も高校までで辞めるつもりだったそうです。
大学で野球を続けるつもりはなかった古田さんは一般入試で受験をし、大学に進学。
ご縁に導かれるように大学でも野球を続けることになりました。
詳しくは別途記載していますので、ぜひこのまま読み進めてみてください。
大学時代になると色々と結果が出てくるようになり、大学4年生の時に日本代表に選抜されたことにより、プロ野球選手の可能性が見えてきたそうです。
古田敦也さんは高校大学の野球部を経て、社会人野球にいき、そこで1989年のドラフト2位で東京ヤクルトスワローズに入団し、プロ野球選手になりました!
古田敦也の選手兼監督
1990年にヤクルトスワローズに入団した古田敦也さんは、2005年まで選手として活躍!
2006年から現役選手プラス監督の「選手兼監督」としてヤクルトスワローズを引っ張り支える存在に。
1977年に野村克也さんが選手兼監督を務めて以来で、29年ぶりだったそう。
古田さんが自分が代打で出場する際に、審判に代打は誰かを告げる際、自分を指さして「オレ」といったことから、「代打オレ」が話題に!
「代打オレ」という言葉は流行語大賞にノミネートされるほどでした。
選手兼監督を2年間努めた古田敦也さんは、2007年に右肩の故障により試合にはほぼ出場できず、チームの成績も良くなかったことから、現役選手と監督の両方を引退することになりました。
古田敦也の背番号27!名誉番号に!
17年間、ヤクルトスワローズ一筋だった古田敦也さん!
ヤクルトスワローズの球団側も古田さんの球団への貢献に感謝し、古田さんの背番号だった「27」を名誉番号としました。
ヤクルトスワローズでは初めてのことでした。
名誉番号とは準永久欠番とも呼ばれているようで、一定期間は誰もつけられない背番号として大切に扱われいるようです。
偉大な功績をあげた選手が退団する際、その功績を讃え着用していた背番号を「名誉番号」「準永久欠番」として、前任選手や球団の「預かり」という形で一定の期間空き番号としておく場合がある。
古田敦也さんの背番号27は、古田さんが付ける以前からヤクルトスワローズの正捕手の番号として受け継がれてきた番号です。
現在名誉番号となり、球団または古田さんがこの人ならば!といった正捕手が出てきた場合、27番をそのキャッチャーに渡すようです。
古田敦也の高校時代!高校野球
古田敦也さんの高校時代を紹介してきます。
古田敦也の出身高校はどこ?
古田敦也さんの出身高校は、兵庫県の川西明峰(かわにしめいほう)高等学校です。
古田さんは中学生の時に、プロ野球選手になるのは無理だろうという思いがあったため、高校は家から一番近い進学校を選択。
川西明峰高校はスポーツなども特に強い学校ではなく、野球部も夏の兵庫大会の成績は、2、3回戦で敗退していることが多い印象です。
古田さんも甲子園は目指して野球はやっていたものの、出られるとは思っていなかったようです。
進学校の公立高校ですので、甲子園に出場するような強豪校に比べて自分たちがどれだけなのかはわかっていたのだと思います。
甲子園の場所は兵庫県にあるため、兵庫県の人たちは「近くて遠い甲子園」といったりするそうですよ(^^;
強豪校ではない県立高校で、練習時間も1時間くらいでした。甲子園には全然縁がなかったですね。兵庫県出身なので、甲子園球場自体は近くにあったのですが。兵庫県の人は「近くて遠い甲子園」とよく言うんですが、まさにそうでした。
引用:マイナビニュース
野球の強豪校ではない川西明峰高校ですが、1993年春の選抜甲子園に出場しています!!
半年前の1992年秋季兵庫大会で優勝し、近畿大会に出場した川西明峰高校は春の選抜に選ばれました。
1回戦で市立船橋と対戦し1-4で敗退しています。
古田敦也さんも当時はプロ野球選手!
母校の甲子園出場は、とっても嬉しかったのではないでしょうか^^
古田敦也の高校野球の成績
古田敦也さんの高校野球の成績を見ていきましょう。
夏の兵庫大会の成績です。
・第63回夏の兵庫大会で3回戦敗退
◎高校2年生:1982年
・第64回夏の兵庫大会で3回戦敗退
◎高校3年生:1983年
・第65回夏の兵庫大会で3回戦敗退
古田敦也さんの高校3年間の高校野球の成績は、3年連続3回戦で敗退しています。
高校時代の3年間は、県 大会で3回戦に進出したのがベスト記録でしたね。
引用:DREAM GATE
高校は進学校だったこともあり、運動よりも勉学にちからを入れていました。
部活動も他の部とグランドは共同で使用し、練習も18時までと決まっていた高校時代。
それでも毎日練習に参加し、3年間仲間たちと一緒に一生懸命野球に励んだそうです。
これが最後の野球になると思って。
他の高校球児と同じように、野球部の仲間とともに、ちょっとでもうまくなりたい、強くなりたいという思いを持ちながら、全力でやっていました。
引用:マイナビニュース
先輩が引退した後、古田さんはキャプテンに選ばれます。
ポジションはもちろんキャッチャー!
しかも4番だったそうです^^
古田敦也さんは、高校時代は無名の選手だったのですが、裏ではしっかり注目されていた選手でした!
無名ではあったが、高校時代から秘かに注目される存在。卒業時にはドラフト外で巨人と広島から誘いがあった。
引用:東洋経済
ドラフト外とういうのは、ドラフト会議で指名はないけれども、選手と球団の直接交渉で入団できる道があったようです。
1990年にドラフト外入団は廃止されています。
巨人や広島も注目していた古田敦也さんは、中学時代から実力はあったのでしょう!
でも古田さん本人が、自分の実力にしっくりきていなかった。
プロ野球に入ることではなく、プロ野球で活躍するちからを常に見ていたのではないでしょうか。
古田敦也さんは、高校卒業後は進学を決めていたため、野球部を引退した8月から受験勉強をし、一般入試を経て、関西大学商学部と立命館大学経営学部経営学科に合格!
やはり子供の頃から頭が良かったんですね!
☆野球番組や野球に詳しい中居正広さん!
中居さんご自身は野球経験はあるのでしょうか!?出身高校など高校野球について調べてみました⇩
古田敦也の大学時代!大学野球
古田敦也さんの大学時代を紹介していきます。
古田敦也の出身大学はどこ?
古田敦也さんの出身大学は、京都の立命館大学です!
先ほどもお話ししたように、古田さんは関西大学も合格していました。
当初は自宅からも通える関西大学に通おうと思っていました。
ですが、当時の川西明峰高校の野球部監督だった前田芳美監督が、立命館大学の野球部の練習に参加するようにとすすめてきたそう。
練習に参加すると立命館大学の野球部監督の中尾卓一監督に、「ぜひ来てほしい」と評価を受けました。
迷った古田さんですが、立命館大学は京都にあるため下宿しなければならず、金銭的に親に負担をかけるという思いもあって、関西大学に行くことを決めます。
立命館大学の中尾卓一監督にその意思を伝えに行きました。
その時、中尾監督の勘違いなのか戦略なのか、大喜びの大歓迎を受けてしまったのです。
お会いするなり中尾監督が勘違いだったのか、狙いだったのか、「ついに決心してくれたか!」と握手までされちゃいまして。
引用:DREAM GATE
古田敦也さんはこうして立命館大学に進学することになりました。
ちょっと強引に立命館大学に引き込まれた古田さんですが、立命館大学に入ってからメキメキと頭角を現していきます。
この立命館大学での4年間により、古田敦也さんは無理だと思っていたプロ野球選手の道が見えてくるのです。
古田敦也の大学野球の成績
古田敦也さんの大学野球での成績は、大学3年の関西学生リーグで春秋と連続優勝を達成し、大学4年生の1987年に大学野球日本代表のメンバーに選出されたりしています。
べストナインに4度選出されるなど注目の選手に!
関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた
立命館大学の練習はこれまでとは違い厳しく、甲子園出場を経験している選手なども集まってきており、レベルが高い中での練習でした。
それでも、立命館大学の中尾卓一監督は軍隊的な部の在り方を嫌う人だったそうで、伸び伸びとプレーができた環境だったようです。
当時の監督としては、とても珍しい在り方だったのではないかと思います。
もちろん全く体育会系の上下関係などがなかったわけではなく、タテの規律はあり厳しかったそうです。
立命館大学の中尾卓一監督のもとで野球に集中でき、目の前のことを一生懸命取り組んできた古田さん。
大学に入って、ライバルに負けたくない、レギュラーを取りたい、レギュラー取れたら試合で勝ちたい、試合で勝ったら優勝したい、と一つ一つ目の前の目標をクリアしていった結果でしょうか。
引用:経済同友会
大学3年生で関西学生リーグで春秋と連続優勝し、4年生ではキャプテンを務めます。
そして大学野球日本代表のメンバーに選出された頃、だんだんプロ野球選手への可能性が見えてきたそうです。
全国で優秀な選手たちの中でプレーをしてみて、自分もいけるのではと感じることがあったとか。
日本代表チームには全国の大 学生からトップレベルの野球選手が集るでしょう。僕以外のキャッチャーもいたのですが、「アマチュアのトップレベルはこんな感じか」と思い、これなら自分 もプロでやれるんじゃないか、何となく本気で考えるようになりました。
引用:DREAM GATE
それまでは大学卒業後は、普通に仕事をすることを考えて色んな経営者の本を読んでいたそうです。
やはり関西ですので、最初はナショナ ルの松下幸之助さんとかです。わくわくしながら読みましたよ。松下さんシリーズを読み終えたら、次はソニーの盛田昭夫さんとか。
引用:DREAM GATE
立命館大学のグラウンドにも、プロ野球球団が視察に訪れるようになっていました。
球団からも話があり、ドラフト会議で「上位指名」を約束してくれた球団もあったそうです!
いよいよプロ野球選手になる!そう思い、古田さんも大学側も、会見の準備を整えて待っていました。
ですが1987年のドラフト会議では、古田敦也さんにはどこからも声がかかることはありませんでした。
これが「ドラフト漏れ」という出来事になりました。
☆古田敦也さんの公認教え子であり、弟子であるギャル系野球女子のめいちゅん!
キャッチャーとしてビタ止を極め中!ギネス級の球速240kmを受けとめた?!
古田敦也のドラフト漏れとは?
実際に球団から声がかかり、上位指名の約束もあったドラフト会議で声がかからなかった古田敦也さん。
のちにこの出来事は古田敦也さんの「ドラフト漏れ」という出来事になっていきます。
なぜ、ドラフトから声がかからなかったのでしょうか。
これには「メガネ」が大きく関係しているのです。
立命館大学時代、軍隊的な圧力はありませんでしたが上下関係の厳しさはありました。
学校内で先輩を見かければ、大きな声で挨拶をしなければなりません。
当時古田さんの視力は、高校時代に受験勉強で視力は落ちており、おまけにもともと乱視がきつかった状態。
コンタクトやメガネをかけないと先輩の存在を確認できない。
そう判断した古田さんは、大学生になってからメガネをかけるようになります。
コンタクトではなく、メガネの理由は、当時はソフトコンタクトレンズで乱視用はなかったそうで、乱視を矯正するためにメガネしかなかったためです。
「当時は乱視用のソフトレンズがなくて、矯正するにはメガネしかなかった」。矯正視力は1.2あったという。
引用:東洋経済
そしてこのメガネをかけていたことが、ドラフトから声がかからなかった理由となってしまい、「ドラフト漏れ」という出来事、事件となりました。
今では信じられませんが、球団が古田さんを指名しなかった理由は、ある定説があったからです。
それは、、、
「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」
引用:東洋経済
この「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」という定説があったのです。
それを信じていた球団側が、古田さんを獲得するのに躊躇して、結局ドラフトから漏れてしまったという出来事でした。
当時を古田さんは、「恥ずかしくて悔しかった」と振り返っていました。
ただそれが反骨心が生まれたきっかけとなり、絶対に見返してやる!と思ったそうです。
そこから古田敦也さんは、1988年に社会人野球のトヨタ自動車に入社。
そして1989年にドラフト会議で東京ヤクルトスワローズに2位で指名を受け、やっとプロ野球選手の道に!
古田敦也さんは、社会人野球の間にも日本代表に選抜され、ソウルオリンピックに捕手として出場し、銀メダルに大きく貢献しています。
ですがメガネの定説があった当時、日本代表監督の鈴木義信監督に「外野手」に転向を申し出ていました。
それはメガネの捕手はプロ野球選手になれないという思いから。
その時の日本代表監督の鈴木義信監督は、こう答えました。
「おまえがメガネの捕手第1号になればいいじゃないか」
引用:スポニチ
この言葉に背中を押され、プロ野球選手となり、2015年には捕手として野球の殿堂入りをしています。
古田敦也さんのおかげで、「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」という定説は崩れ、今では、「メガネをかけているけれど、古田さんのおかげで野球が続けられている」と感謝されることもあるそうです。
今の時代、そんな定説を信じていたとは驚いてしまい、都市伝説なのか!っと思ってしまいますが、
それはきっと古田敦也さんの活躍のおかげなのかもしれません。
あの時、プロ野球選手になることを辞めていたら、捕手から外野に転向していたら、今でもメガネをかけたキャッチャーは大成しないと言われ続けていた時代だったかもしれない。
そう思うと、時代に翻弄されながらも、それを乗り越えて、更に成長し続けてきた古田敦也さんに尊敬と感謝の気持ちでいっぱいですね^^
☆現在福岡ソフトバンクホークス監督を父に持つ、俳優の工藤阿須加さん!
工藤阿須加さんは野球経験はあるのでしょうか?!
まとめ
以上、古田敦也さんの出身高校や大学、高校大学の野球の成績やドラフト漏れとは一体何があったのかについてでした。
高校時代に強豪校でもなく、甲子園にも出場経験がなかった選手が、大学時代にいっきに結果に結びついてプロ野球選手になった軌跡を見れて、とっても楽しかったです。
古田敦也さんは無名だったとはいえ、ちゃんと注目された選手でしたね。
ドラフト漏れの出来事は、とっても衝撃的でした。
本当にあの時、反骨心が生まれて立ち上がってくださって、ありがとうございました!という気持ちでいっぱいです(^^)
これからも応援しています!!
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