北海道日本ハムファイターズの監督に就任した新庄剛志さん!
新庄剛志さんはプロ野球現役選手の頃からプレーとしても目立ち、他のパフォーマンスにおいてもエンターテイナーで、プロ野球界を盛り上げてくれた選手です。
そんな新庄剛志さんはいつから野球をやっていたのでしょうか。
どんな子供時代だったのかや、出身高校や高校時代はどんな選手だったのか、甲子園出場はしていたのかなど気になり調べてみました!
今回は新庄剛志さんの出身高校や高校時代の成績、甲子園出場や野球の経歴まとめについて紹介します。
新庄剛志のプロフィール
参考:Wikipedia新庄剛志
新庄剛志さんは2021年11月現在で年齢は49歳です。
2007年に日本ハムファイターズを引退し、インドネシアのバリ島に移住。
現役時代は敬遠球を打ち、サヨナラ安打にしてしまったり、ベストナイン・ゴールデングラブ賞なども受賞しています。
プレー以外でもファンを楽しませるために大型バイクのハーレー・ダビッドソンで現れたり、札幌ドームの天井からゴンドラに乗って現れたりなどエンターテイナーでした。
2019年に現役復帰を目指し、2020年にトライアウトを受けましたが、残念ながら球団からは声はかかりませんでした。
年齢は46、47歳ということですよね!!凄いバイタリティー(*^^*)
選手としては声はかかりませんでしたが、2021年に日本ハムファイターズの監督として声がかかり、今では野球ファン以外も注目している存在に!!
監督として呼ばれることを嫌がり、「ビッグボス」と呼ぶように呼びかけるなど新庄剛志さんの世界観がいっぱいの監督就任会見でしたね☆
※新庄剛志さんのなぜビッグボスで監督と呼ばせないのか、ビックボスの由来や意味についてはこちら⇩
新庄剛志の出身高校はどこ?
新庄剛志さんの出身高校は、福岡県にある「西日本短期大学附属高等学校」です。
新庄剛志さんはお父さんの勧めで西日本短期大学附属高校に入学しました。
甲子園に出場できる可能性が高い。
そしてその先のプロ野球選手になれる可能性がある学校ということで選んだそうですよ。
それと、誘惑の少ない、野球に集中できる場所ということも大事だったようです。
「息子を成長させるためには、誘惑のない場所にあって寮生活ができるのが条件でした」
新庄剛志さんは野球で特待生として入学したのではなく、一般入試で入学し寮生活を送っています。
野球部以外にも女子バレーボール部も強く、野球や女子バレーの強豪校として有名な学校です。
西日本短期大学附属高校の野球部は、1965年に創部。
2021年11月現在まで甲子園に出場経験があります。
甲子園出場回数は春1回、夏6回です!
しかも1992年には甲子園で優勝!!全国制覇を達成しています!!
プロ野球選手も新庄剛志さん以外にも10名以上輩出している学校です。
新庄剛志さんの2学年下には、高校卒業後に社会人野球を経て、その後プロボクサーに転向した荒木 慶大(あらき よしひろ)さんがいます。
高校時代にドラフト候補のリストには載った選手だったのですが、実際にドラフトでは声がかからずに社会人野球へ。
野球を引退した後に1999年にプロボクサーとしてデビュー!
当時荒木さんは25歳。
野球を引退後にプロボクシングの世界に入るというのは、本当に身体能力が高かったことがわかりますよね!
凄いですね^^
※新庄剛志さんは1972年1月生まれ。
◎石貫 宏臣(いしぬき ひろおみ)さん
・1969年生まれ。投手。
1987年ドラフト2位で広島東洋カープに入団。
その後、福岡ダイエーホークス(現:ソフトバンク)や千葉ロッテマリーンズを経て、1996年に引退。
◎柴原 浩(しばはら ひろし)さん
・1969年生まれ。捕手。
1987年ドラフト外で千葉ロッテマリーンズに入団。
1997年に引退。
2021年現在の西日本短期大学附属高校の野球部の監督は西村慎太郎監督です。
新庄剛志さんと高校時代を共にしたチームメイトです。
西村監督率いる西日本短期大学附属高校は、2021年の夏に甲子園に出場!
新庄剛志さんは母校の甲子園出場が決まった際には、後輩たちへのメッセージを載せたTシャツを作り、贈っていました^^
「勝ち負けよりも甲子園での野球をちかっぱ楽しんで暴れてきんしゃい!!新庄剛志」
引用:西日本スポーツ
”ちかっぱ”という言葉は「目いっぱい」という意味で、福岡の方言のようです。
この言葉を載せたTシャツは、甲子園出場が決まってから甲子園大会が始まる前までの間に、新庄さんが急いで注文したそうですよ!
甲子園には何とか間に合ったようです^^
大先輩からのプレゼントに対し、後輩の選手たちはとても喜んだそう♪
それはそれはとっても嬉しいですよね(≧▽≦)
主将の池田翔君(3年)は取材に対し、「新庄先輩ありがとうございます! 勝ち負け気にせず、全国で一番甲子園を楽しみます!」。
西村監督は「新庄ありがとう ちかっぱ楽しむけん見とって」とコメントした。引用:朝日新聞
新庄剛志の高校時代の成績は?甲子園出場?
新庄剛志は甲子園出場?
新庄剛志さんは高校時代に甲子園に出場しているのでしょうか。
調べてみたところ、新庄剛志さんは高校時代に甲子園には出場していませんでした。
先ほどもお話ししましたが、西日本短期大学高校は2021年11月現在で、甲子園出場回数は春1回、夏6回です。
春夏合わせて合計7回甲子園に出場した中で、残念ながら新庄剛志さんが在学中の年度はありませんでした。
◎1987年:第59回春の選抜甲子園出場
(1987年新庄剛志さん入学)
(1988年高校2年生)
(1989年高校3年生)
※新庄さんが在学中の夏の成績は、次の項目の「高校時代の成績」にて別途紹介します。
◎1990年:第72回夏の甲子園出場
◎1992年:第74回夏の甲子園出場
甲子園で優勝し、全国制覇達成!!
◎2004年:第86回夏の甲子園出場
◎2010年:第92回夏の甲子園出場
◎2021年:第103回夏の甲子園出場
こうしてみてみると、新庄剛志さんが入学する前年と卒業直後の年に西日本短期大学高校は甲子園に出場していますね。
新庄さんが在学中に甲子園出場はできませんでしたが、とってもおしかったんですよ!!
次は新庄剛志さんが在学中の夏の成績をみていきましょう!
新庄剛志の高校時代の成績
新庄剛志さんの高校時代の成績は、さきほど甲子園にとってもおしかったとお話ししましたが、
それは新庄さんが高校3年生の時に福岡大会での成績が決勝に進出だったからです!!
甲子園まであと一歩のところでした。
・準決勝で東筑に0-4で敗退
◎高校2年生:1988年第70回夏の福岡大会
・2回戦で東福岡に2-5で敗退
◎高校3年生:1989年第71回夏の福岡大会
・決勝で福岡大大濠に4-6で敗退
新庄剛志さんが高校に入学した年の高校3年生には、先ほど紹介しましたプロ野球選手になった石貫さんと柴原さんがいました。
入学前年の夏と春の甲子園に出場しているので、強い選手が集まっていたのでしょう。
新庄さんが入学した時は石貫さんや柴原さんもいたので、夏の甲子園に連続出場できそうな代でしたが、
準決勝で対戦した東筑(とうちく)高校は、この年に福岡大会で優勝している学校でした。
高校2年生の時は、2回戦負け。
西日本短期大学高校は2回戦目から登場したため、1試合しかしておらずに敗退となってしまいました。
高校3年生の夏は、一番で守備はセンターで出場。
西日本短期大学高校は決勝で敗れてしまいますが、新庄剛志さん自身はサイクル安打を達成!
プロ注目の選手となりました。
サイクル安打の説明はこちら⇩
サイクル安打(サイクルあんだ)とは、野球・ソフトボールの試合における記録で、1試合で1人の打者が単打、二塁打、三塁打、本塁打のそれぞれを1本以上打った場合に成立する記録である。
新庄剛志さんは、高校時代から他の人よりも運動神経や体力はずば抜けていたようです。
肩もとても強くて、体力もあったとか!
現在、西日本短期大学高校の野球部監督で新庄剛志さんの同級生だった西村監督は、新庄さんを超えるボールを投げる選手は今まで観たことがないというほど!
ホームベースからレフトに向かって遠投すると、ネットを越えてしまう。レフト後方は道路で「危ないからセンターに投げろ」と言われると今度はバックスクリーンにドーンとぶつけて。120メートルは投げていましたね。
引用:サンスポ
新庄剛志さんは運動神経や身体能力も高く、身体で覚えるような体感覚の能力も高かったようです。
西日本短期大学高校は先輩からのしごきが厳しくて有名だった学校でした。
そんなしごきのなかでも新庄さんは身体の使い方を身につけ、野球の技術として吸収してしまうほどだったようです。
先輩が屋上から生卵を投げて、割らずに取れたらしごきが免除されるという厳しい課題も、新庄さんは割らずにキャッチする方法を身につけて、それが野球の捕球にいきていると!
先輩が屋上から生卵を投げ、割らずに捕ったら免除…という無理難題。新庄はジャンプして卵と自身の落下スピードを合わせ、衝撃をやわらげて、割れずに捕る方法を思いつく。この“シゴキ回避キャッチ”が、プロでの、平凡な飛球さえもジャンプして捕球するプレーに結びついた-。本人はそう、語っている。
学校の屋上から生卵が落ちてきて、それを割らずにキャッチできるようになるとは凄いですよね!
1回くらいまぐれでできそうな気もしますが、それを毎回割らずにキャッチできるようになったというのは、身体の使い方を無意識に覚えてしまう天性の才能があるのだろうと感じます。
そして、新庄さんが高校3年生となり高校で一番上の学年になると、そういったしごきは辞めようということになり、なくなったそうです。
自分がやられて嫌だったことを後輩たちにはやらないという判断も、できるようで簡単にはできない難しい部分でもあると思います。
自分がやられて耐えてきたのだから、後輩も耐えるべき…って思う時代でもあったのではないかと思うのですが、
そんな中でも新庄さんは厳しいしごきを辞めることを選択し、他の3年生も同様に辞めています。
新庄剛志さんは野球だけではなく、人間性もとても素晴らしいですね(^^)
新庄さんは高校時代も野球がずば抜けて上手かったのに、他の選手を責めることも全くなかったそうです。
人を良く観ていてアドバイスをくれたり、前向きになるように声をかけてくれていたそう。
そして何より努力の人の新庄剛志さん。
練習も人一倍やっていたようで、「高校時代は練習しているイメージしかない」と西村監督が話していました。
常に練習をしていて、人よりも努力していた姿をチームメイトは常にそばで観ている。
プロ野球に入団後、新庄さんは「足が太くなったらジーンズが似合わなくなるからトレーニングをあまりしない」と発言し、注目を集めていましたが、
西村監督は実際の新庄剛志さんは、夜中までバットを振っていたり、影ながら努力している人だと話していました。
新庄の高校時代は練習していたイメージしかありません。プロ入団後は『足が太くなったらジーンズが似合わなくなるからトレーニングはしない』と言って注目を集めていたりもしましたが、実際はとても真面目に練習しているんです。いつも夜中までバットを振っていました。
引用:サンスポ
人を上下で観ていない。
人へのやさしい想いがある。
影ながら努力している。
新庄剛志さんは野球だけではなく、天性の人間としての真っ直ぐな心のピュアさもとても感じますね!
新庄剛志の野球の経歴
これまでは新庄剛志さんの高校時代のお話しをしてきました。
新庄剛志さんはいつから野球をやっていたのでしょうか。
新庄剛志さんの野球の経歴について調べてみました。
新庄剛志の子供時代
高校時代も福岡大会での決勝に進出したり、運動神経や体力に野球の能力も突出していた新庄剛志さん。
そんな新庄剛志さんなので、子供時代からエリート街道を歩んできたと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、決して恵まれているという環境ではなかったようです。
新庄剛志さんは自身の人生綴った本「わいたこら。」の中で、「超貧乏だった」と話しています。
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子ども時代は野球のスパイクなんて買ってもらえず、学校の上履きで野球をしていたそうです。
欲しいものを買ってもらえたことなんてほとんどなく、小学生の時に運動靴を買ってもらった記憶は1回ほど。
そんな環境でしたが新庄さんのお父さんは野球が好きで、新庄さんを野球選手にしたく、小さな頃から親子で身体を鍛えていたそうです。
小学生に上がる前から足は速く、肩も強かった新庄剛志さん。
石投げは大人よりも遠くに飛ばせたほどだったそう。
小学校3年生の頃にソフトボールを始めたのですが、その前から父とはキャッチボールをしたり、走り込みをしたりと父と二人三脚でやっていました。
野球を始めたのは小学校5年生の時。
自ら野球のメンバーを集め、野球チームを作りました。
しかもたったの2日間でメンバーを集めたそうです。
チームの名前やユニフォームのデザインなども新庄剛志さんが決め、キャプテンでエースで4番。
野球チームのコーチでもある父からの厳しい指導を経て、チームを結成してすぐに福岡県大会で成績を残します。
同チームは結成後1か月余りで福岡県大会(出場64チーム)の第3位に入賞した。
一か月あまりで3位になってしまうというのは、本当にすごいですね!!
新庄剛志の中学時代
新庄剛志さんの中学時代は、軟式野球部に所属。
学校は地元の長丘中学校。
全国大会に出場しています。
新庄剛志さんは中学時代の練習がとっても厳しかったと話しており、走り込みなどをたくさんして体力をつけた中学時代。
高校時代の練習より中学時代の練習の方がきつかったそうで、高校時代の厳しい練習も涼しい顏してやってのけていたようです!
(左翼から右翼の)ポール間を100本走るメニューでも、約50人の部員でタイム内で走り切れるのは新庄くらい。『中学の練習の方がきつかった』と涼しい顔で、バーベルも百数十キロを軽々と上げていました。こういうやつがプロになるんだろうな、と思いました。
引用:サンスポ
新庄剛志のプロ野球入団前の事件
新庄剛志さんは高校3年生の時の1989年のドラフト5位で阪神タイガースから指名を受け、プロ入団が決まっていました。
高校生活も残りわずかの学期末テストの時でした。
新庄剛志さんはプロ野球入団前のとある事件を起こしてしまいます。
それは、先生と喧嘩をして手を出してしまったこと。
でもそのきっかけは、同じクラスの女子生徒を守るために起きたことでした。
学期末テストでその女子生徒はテスト中に早めに解答が終わってしまったので、テスト用紙の裏に絵を描いて時間を潰していたそうです。
そのことに気づいた先生が、その女子生徒に対して叱ったそう。
女子生徒はきちんと解答が終わっていたことを説明しましたが、先生の怒りは収まらない。
そんな状況を観ていた新庄剛志さんは、女子生徒が間違ったことは言っていないと抗議に入ります。
先生は「お前には関係ない」と言い放ち、先生と新庄剛志さんの間で喧嘩が始まってしまいました。
そしてつい新庄さんの手が出てしまったとか…( ゚Д゚)
そのとき、僕は彼女の言い分が正しいと思った。そして「テストも解かないで絵を描いているのはダメだけど、全部問題を解き終わっているんだから、絵を描いても別にいいじゃないですか!」と、先生に抗議したんだ。
「なんだと、お前には関係ないことだ!」 先生と僕との間で言い合いとなり、つい、手を出してしまった。引用:新庄剛志『わいたらこ』
その後、親も呼び出して話し合い、何とかゆるしてもらい、プロ野球への道は閉ざされることにはなりませんでした。
もちろん、手を出してしまったことは本当にいけないことですが、新庄剛志さんの言い分は何一つ間違っていないですよね。
先生が一方的に怒りをぶつけた姿に、新庄剛志さんも黙ってはいられなかった。
女子生徒の方も、新庄剛志さんのおかげでどれだけ救われたことでしょう。
新庄剛志さんの人間としての魅力を感じますね!
そして本当にプロ野球の道が本当に閉ざされなくて良かったです(≧▽≦)
※新庄剛志さんのなぜビッグボスで監督と呼ばせないのか、ビックボスの由来や意味についてはこちら⇩
まとめ
今回は、新庄剛志の出身高校や高校時代の成績、甲子園出場や野球の経歴まとめについてでした。
新庄剛志さんの天才肌的な身体能力も、影ながらの努力開花させてきたことがわかりました。
高校時代から、人間性もとっても素敵な方ですね!
これから北海道日本ハムファイターズの監督として、野球界を変えて大いに盛り上げてくれるでしょう^^
これからも応援しています!!
コメント
「ちかっぱ」は、「目いっぱい」ではなく、「ちからいっぱい」の短縮形です。今はどうか知りませんが、当時の福岡の子供がよく使っていた流行り言葉です。
意味は、目いっぱいと同じで「精一杯」ですが、どちらかというと”思う存分”という意味合いで「ちかっぱい」を使われることが多かったですね。
コメントいただきましてありがとうございます(^^)
「ちかっぱ」は「ちからいっぱい」を短縮した言葉だったんですね!
教えてくださりありがとうございます!!
甲子園を思う存分楽しんでおいで~という新庄さんの気持ちがより伝わりました♪