スポンサーリンク

高校野球で坊主はなぜ?理由や意味は?いつからの歴史で海外はどうなの?

野球の試合終了時の整列 野球
スポンサーリンク

高校野球の県予選や甲子園などを観ていると、選手はほとんど坊主姿ですよね。

今では少しずつ坊主ではない髪型の選手たちも甲子園で見かけるようになりましたが、まだまだ違和感があるのが正直なところではないでしょうか。

でも改めて考えてみると、高校野球ではなぜ坊主なのでしょうか。理由や意味がしっかりあるのでしょうか。

高校サッカーやラグビーなどでは坊主姿の選手は少ないのにっと。

今回は、高校野球で坊主なのはなぜなのか理由や意味や、高校野球で坊主はいつからなのか歴史や海外ではどうなのかについて調べてみました。

スポンサーリンク

高校野球で坊主はいつから?歴史!

高校野球が始まったのは、1915年。全国高等学校野球選手権大会=夏の甲子園大会の第一回が行われた年です。

高校野球で坊主はいつからの歴史なのかというと、この夏の甲子園大会の第一回が行われた当初から、高校野球が始まった年からだったようです。

 

高校野球が始まった時代は、第一次世界大戦中のこと。

情勢的にも落ち着いておらず、貧しい時代。

旧日本軍も丸刈りだったこともあり、高校野球などに限らず、当時の日本の若者の髪型は「坊主=丸刈り」が当たり前でした。

「1915年頃は、『武道(剣道、柔道、相撲等)』と同じで『野球道』という考え方だったんですね。いわゆる『武士道』に近い考え方です。また当時は、第1次世界大戦が勃発した時期。日本はまだ、物資も乏しく、衛生面でも問題を抱えていましたから、必然的に多くの男の子は『丸刈り』となっていたようです」

引用:J-CAST

 

髪の毛を伸ばして手入れをするという余裕などもなかったのかもしれません。

貧しい環境は衛生面にも影響するため、髪の毛を伸ばせる状態ではなかったこともあるようです。

 

1937年には「ぜいたくは敵だ」と政府が国民に、国のために自分を犠牲にして尽くすようにと国民精神総動員の政策を行い、学生の長髪禁止などもその政策の一つにあったようです。

 

こうした歴史の背景から、高校野球はいつの間にか坊主(丸刈り)が当たり前になってしまったのかもしれません。

 

 

スポンサーリンク

高校野球で坊主はなぜ?理由や意味は?

現代における高校野球で坊主はなぜなのか、理由や意味は、恐らく基本的にはないのではないかと思います。

先ほど紹介しましたが、高校野球が始まり昭和にかけては、時代の背景で高校球児も「坊主」が当たり前のようでした。

ですが、現代においては高校野球で坊主でなければならないという理由や意味は正直見当たりませんでした。

 

それは高校野球を規定している「高野連」も、特に坊主であるように言及していることもなく、規程で何か決まっているわけでもありません。

各学校に任せている状態だそうです。

「高野連の規定では、そういうこと(丸刈り)を強制する、ということは一切ありません。それぞれの学校、監督や部長先生の指導に委ねられています。新潟県の強豪・新潟明訓は最近、『髪型は本人の自由』ということで、話題を集めていると聞いています」

引用:J-CAST

 

 

高校野球はなぜ坊主なのか。こうした疑問を持っている人も多くいるようで、色んな理由をみなさん考えていました。

「髪型やおしゃれに気を向かわず野球に集中するため」
「試合中も髪型に気を取られることなく野球に集中するため」
「野球で忙しいため、美容院などに行く暇がない」
「遠征費などで髪型にかけるお金がないため」
「衛生面ですぐ洗えるから」
「伝統だから」
「管理しやすいから」

 

上記の理由が、高校球児が自ら選んで坊主にしている理由だとしたら、それは良いと思います。

「伝統を大切にしたいから坊主にする」
「野球に集中する環境にいたいから坊主にする」
「髪の毛切るお金を節約したいから坊主にする」

高校球児が自分の意志で坊主を選び、その理由がこうした理由なら、そういう理由なんだなっと思えます。

 

ですが、高校野球において、坊主にするかしないかの選択を自分で出来る学校は少ないように感じます。

私自身個人の考えは、坊主であるかどうかはどちらでも良いと思っています。

坊主かどうかというよりも、そこに強制的圧力のような、締め付ける制度があることが問題な気がしています。

それが「高校野球は坊主」といった一つの形に現れているだけで、坊主かどうかは問題ではないと思っています。

 

 

神奈川県の慶応義塾高等学校の野球部監督の森林貴彦さんも、野球部が坊主である合理的な理由はないと話していました。

慶応義塾高校は、戦後間もない頃から坊主を強制することはなかったそうです。

学校自体の校則もほとんどなく、自分で考えて行動すること、自分の行動には自分で責任を持つことという考え方を大切にしているようです。

 

慶應の野球部の髪型も、野球のプレーに影響しないようにと最低限のルールはあるようですが、基本は自由です。

慶応義塾高校の野球部の髪型を見てもらえればわかりますが、坊主の人はあまりいません。

坊主にしたければしても良いし、選手に委ねられています。

 

慶応義塾高校野球部監督の森林貴彦さんも、高校野球は坊主であることが問題なのではなく、その背景が問題だと感じているようです。

 

「坊主にしろ、と言われて、ハイ、わかりました、と坊主にするのは、ある意味では楽ですよね。『なぜその髪型にするのか?』と、自分の頭で考えなくてもいいんですから。僕は、坊主にするのが悪いと言っているわけではない。髪型に限らず、自分自身で物事を考えられるようにならなくてはいけないんです」

引用:文春オンライン

 

昔の時代は、監督が言ったことを忠実に守ることが素晴らしい選手だったかもしれません。

それはちょっと前の昭和や平成の時代もそうだったと思います。

改めて森林貴彦さんのお話しを伺っていると、監督の指導だから、伝統だったからと言って、何も考えずに受け入れることの方が異様に思えてきますね。

 

伝統というと聞こえが良い部分がありますが、指導者の言うことは絶対といった時代の中で育ってきた選手が監督になった時、自分自身が経験したことを今度は選手にしてしまうことが繰り返されています。

これも一つの伝統ですよね。

監督、指導者の意見を聞くことが絶対であり、選手が意見するなんてことは許されないといった雰囲気が、高校野球は坊主だといった背景にも繋がっているのだと思います。

 

もし、選手が反論でもしようものなら、頭ごなしに否定、叱責する。これでは選手は萎縮するだけで、ますます自分の意見を持たない人間になってしまいます。それはやはり間違いで、人は皆それぞれの意見があって当たり前という前提に立たなければならず、そのためには、まずは自分自身が意見や考えを持たなければいけません。

引用:PRESIDENT Online

 

監督の森林貴彦さんは選手に「監督」とは呼ばせておらず、選手は「森林さん」と呼んでいるそうです。

そこには「上下関係」「主従関係」がないからだそうです。

高校生を一人の大人として接し、本人がどう思い、どう感じて、どう考えているのかをしっかり話を聞くそうです。

 

「高校生をバカにしてはいけません。僕はほとんど大人として扱っています。そのために、普段から意識して〈問いかけ〉を行っています。『どう思っているの?』『なぜそのプレーを選択したの?』等々。例えばミスをしても、ただ叱るのではなく、その意図を聞きます。失敗の原因を自分で考え、理解することで、同じ失敗を繰り返さないようになるんですね。スポーツは本来、たいへん知的な作業なんです」

引用:文春オンライン

 

 

慶応義塾高校野球部監督の森林貴彦さんは、高校野球は選手のものであり、選手の主体性を大切にするあり方に変わっていかなければならないと話していました。

それは、高校野球を通して、自分の人生の舵を自分で取れるようになることを見ているのだと感じました。

 

高校野球を終えて、その先も野球を続けていく人、プロ野球選手になる人、野球から離れる人。

色んな人生があると思います。

野球を続けるかどうかは関係なく、自分で考え自分で選んでいけることは、人生でとても大切なことだと思います。

 

高校野球で坊主はなぜなのかと疑問を持つというのは、今までの固定観念を壊し、新しい時代への一歩に繋がっていることだと思います。

今では少しずつ髪型にとらわれない学校が増えてきています。

本当に大切なことは何なのか、その大切なことを大切にしていけるように、大人たちが変わっていかなければいけないのだと感じました。

 

☆慶応義塾高校の野球部監督の森林貴彦さんの著書です⇩

 

Amazon

楽天

 

 

 

スポンサーリンク

高校野球で坊主は海外はどうなの?

高校野球で坊主は海外ではどうなのでしょうか。

今までの日本の背景を見て来た通り、高校野球で坊主は日本独自のものであり、海外ではないようです。

アメリカの映像監督のマイケル・クロメットさんが神奈川県の横浜隼人高校を取材した際に、とても驚いたそうです。

全員が坊主で、同じ格好で、同じことを指示通りに動いている光景に驚きました。圧倒的な「統一感」は、僕の想像をこえるものでした。

引用:高校野球ドットコム

やはり日本独特の雰囲気がありますよね。

 

もし日本のようにアメリカでも、部活に入るのに坊主にしなければならないといったことになったらどうなるのでしょか。

以前、アメリカの中学校のバスケットボール部で長髪を禁止とし、細かい長さの規則があったそうです。

その決まりより髪が長かった男子生徒が、長髪を理由に練習に参加できなかったことがありました。

生徒の親が学校を相手に裁判を起こし、裁判所では学校側に法律違反という判決を下しました。

この学校のバスケットボール部で長髪を禁じられているのは男子生徒だけだった。女子のバスケットボール部員に対しては長髪を禁止する内部規則はなく、長髪でも部の活動に参加できた。男子生徒であるために髪の毛が長いという理由で練習に参加させてもらえなかった。これが、性別によって公教育での活動の機会を差別してはいけないとする「タイトルIX(ナイン)法」に違反していると見なされたのだ。性別による機会の差別であると。

引用:THE ANSWER

 

日本の高校野球のように、アメリカで坊主が強制的になった場合は、人権問題や差別問題として裁判になってしまうようですね。

坊主でなければ高校野球ができないという風習が、これから変わっていってくれることを願っています。

 

☆野球のなぜシリーズ!!

 

 

スポンサーリンク

まとめ

以上、高校野球で坊主なのはなぜなのか理由や意味や、高校野球で坊主はいつからなのか歴史や海外ではどうなのかについてでした。

残念ながら現代における高校野球で坊主はなぜなのかの理由や意味はありませんでしたね。

伝統という言葉に縛られて、大切なものを見失っているのは、私たち大人なんですよね。

大人たちが変わっていかなければいけないのだと感じました。

新しい時代に向かって進んでいきましょう♪

コメント

タイトルとURLをコピーしました