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上重聡の甲子園の成績は?高校野球で松坂大輔とライバル!野球を辞めた理由は?

勝利を分かち合う野球選手たち 野球
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日テレのアナウンサー上重聡さん!

上重聡さんが高校野球で有名な選手だったことを知っていますか?!

甲子園で松坂大輔さんと17回延長の死闘を繰り広げたライバル同士の対決!

手に汗握る戦いで、上重聡さんも松坂大輔さんも本当にすごかった伝説の試合です。

そんな上重聡さんの高校野球の甲子園の成績、ライバル松坂大輔さんと17回延長を戦った試合についてや、なぜ野球を辞めてしまったのかの理由についてなど調べてみました。

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上重聡のプロフィール

 

◎名前:上重 聡(かみしげ さとし)
◎生年月日:1980年5月2日
◎出身地:大阪府八尾市
◎身長:181cm
◎趣味:料理。得意料理は炒飯とプリンです。 
◎特技:野球。甲子園に3度出場しました。
◎血液型:O型

 

小学校2年生から野球を始めた上重聡さん。

小学校や中学でも全国大会で優勝しています!

ずっと投手だったようです。

ですが、小学校、中学校と共に当時はエースだったわけではなく、2番手の投手だったようです。

中学生の時に野球チーム「八尾フレンド」でプレーをし、そこで出逢った同級生と共に同じ高校に入学!

甲子園で活躍し、大学野球に進みました。

大学卒業後はプロ野球の道ではなく、アナウンサーとして活躍されています(^^)

 

 

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上重聡の出身高校はどこ?

上重聡さんの出身高校は、大阪府のPL学園です。

高校野球にPL学園の名前は外せない!それくらいの強豪校でした。

「強豪校でした」の過去形になっているのには、現在のPL学園野球部は、残念ながら事実上の廃部状態だからです。

野球部内の度重なる暴力事件に対し休部となり、2017年に大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届が出され、部員の募集を停止したままになっています。

野球部に限らず、学校自体の自体も危ぶまれており、募集人数に対して応募者が大幅に定員割れ。

名門PL学園の存続が厳しい状態のようです。

 

ちょっと悲しい話題になってしまいましたが、PL学園は本当に高校野球の名門校。

たくさんのプロ野球選手を輩出しており、書き切れないほど。

有名な選手も多く、桑田真澄さんや清原和博さんのKKコンビ。

メジャーリーガーの前田健太投手もPL学園出身です!

 

甲子園には春には20回、夏には17回出場しており、そのうち全国制覇は春3回、夏4回という成績!

上重聡さんも、そのPL学園で大活躍した選手!

先ほどお話しした中学時代の野球チーム「八尾フレンド」で出逢った同級生というのは、PL学園の主将を務めた平石洋介さんです。

平石さんとともに、上重聡さんは全国制覇を目指し、プロフィールに書いてあるように、高校時代に3回甲子園に出場しています!

 

☆PL学園の大先輩は桑田真澄さん!息子のMattさんも有名ですよね^^

 

 

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上重聡の甲子園の成績は?

上重聡さんの甲子園の成績は、高校3年生の1998年春のベスト4に入ったことが最高順位のようです。

高校時代の防御率はわかりませんでしたが、高校3年生の春夏とPL学園のエースとして活躍しました。

上重聡さんの高校時代の春夏の甲子園の成績です。

 

◎1996年高校1年生
・第78回夏の甲子園出場。3回戦で敗退。

◎1997年高校2年生
・第79回夏の大阪大会で準々決勝で敗退。大阪桐蔭と対戦し9-10

◎1998年高校3年生
・第70回春の甲子園出場。準決勝で敗退。横浜高校に2-3。
・第80回夏の甲子園出場。準々決勝で敗退。横浜高校に延長17回7-9。

 

上重聡さんは、高校1年生の夏からベンチ入り。

ですが、入学当時は、同級生の投手の中での評価は6番目でした。

高校2年生の時はベンチ入りもできず、スタンドからの応援だったようです。

 

そして高校3年生ではPL学園のエースに。背番号1番を付けていました。

春、夏と甲子園に出場し、両方とも神奈川県の横浜高校に敗れています。

横浜高校といえば当時は「平成の怪物」と言われた投手、松坂大輔さんがいた学校です。

今でも語り継がれるPL学園対横浜高校の延長17回の激闘。

上重聡さんは、松坂大輔さんと高校野球でライバルでした!

 

 

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上重聡は松坂大輔と高校野球でライバルだった!

上重聡さんは松坂大輔さんと高校野球でライバルでした。

2人は同級生で、松坂世代と言われている代です。

松坂大輔さんのいる横浜高校を必ず倒さなければ全国制覇ができません。

 

上重聡さんが高校3年生1998年の春の選抜甲子園では、準決勝で横浜高校と対戦し、逆転負けをしたPL学園。

PL学園は全国制覇をして当たり前と思われるほどの強豪校です。

夏の甲子園で優勝するには松坂大輔さんを倒さなければならないとPL学園のみんなが感じ、「打倒松坂」として、夏の甲子園に向けて立ち上がったそうです。

松坂大輔さんの球を打てなければ、勝つことは難しいですし、横浜高校は松坂大輔さん以外の選手も中学時代から優秀な選手が集まっている学校でした。

 

PL学園は、上重聡さん高校生最後の夏の南大阪大会で優勝し、甲子園に出場。

南大阪大会では7試合で合計70得点をあげ、失点はたったの2点。

それでもPL学園は浮かれずに、見ている先には常に「横浜高校」だけだったようです。

 

そして迎えた1998年の夏の甲子園で、準々決勝で横浜高校と対戦したPL学園。

延長17回の激闘でした。

2回裏に3点を先制したPL学園。

それでも、上重聡さんを始めPL学園はこんなことを思っていたそうです。

「お前ら、こんなもんやないやろ。来いよ、来いよ」

引用:朝日新聞

 

4回の表で2点を返された時は、来た来たー!!っと思ったとか!!

「来た、来たー!」と思った。「そうこなくっちゃ。それでこそ、横浜や」

引用:朝日新聞

 

やはり全国制覇を横浜高校に苦しめられてきたPL学園ですね!

本物のライバルってこういうことなんだなっと感じます。

「打倒松坂」「打倒横浜高校」を掲げて厳しい練習に取り組んできたPL学園の強い想いを感じます。

本当の、本物のライバルだからこその言葉ですよね。

 

 

PL学園の先発は稲田学さんでした。4対4で迎えた7回から上重聡さんが登場。

上重聡さんはここから延長17回まで、11イニングを投げ抜きます。

1点打っては、次の回にすぐ1点を取られ。取られては取返しの激闘!

16回を終えて7対7の同点でした。

そして迎えた17回表。横浜高校の攻撃。

上重聡さんは2ランホームランを打たれ、9-7となります。

17回の裏に、PL学園は松坂大輔さんを打つことはできず、試合終了。

この時、試合開始から3時間30分を超えていたそうです。

 

上重聡さんが投げたボールは145球。

松坂大輔さんは最初から最後まで一人で投げ抜き、250球でした。

 

激闘を終え、勝利した横浜高校の主将の小山さんは大号泣。

負けた上重聡さんは笑顔でした。

やりきった高校最後の夏だったのだと思います。

 

 

 

☆芸能人の上地雄輔さんも松坂大輔さんと同じ横浜高校出身です!
バッテリーを組んでいて、上地雄輔さんもかなり野球が上手くレベルの高い選手でした⇩

 

 

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上重聡が野球を辞めた理由

上重聡さんは高校卒業後、立教大学に進学します。

もちろんそこで野球を続けていましたが、大学卒業後は日テレのアナウンサーに!

上重聡さんが野球を辞めた理由は、肘の怪我が大きな理由でした。

大学3年生の頃、盲腸になり練習を休み、その練習の遅れを取り戻そうと急いで調整したことが影響しているようです。

まず太ももを痛めてしまい、その太ももが治らないまま投げ続けていると、急に右ひじに力が入らなくなったそう。

靭帯を損傷しており、手術をしないと元には戻らないと言われたそうです。

この怪我が野球を辞めた大きな一つの理由ではありますが、当時、上重聡さんは手術をして再度立ち上がる気力がもう残っていないようでした。

 

上重聡さんは大学に入学してからも決して順調に来たわけではありませんでした。

あの松坂大輔さんと激闘をしたからこその重圧を感じ、イップスにもなっていたそうです。

あの時のような試合をしなければいけない、松坂大輔投手のように素晴らしい球を投げなければいけないと、

常に松坂大輔さんと比較されるような日々。

自分自身でもそのことが強い思いとして自分を縛ってしまったようでした。

 

そんなプレッシャーから、マウンドで13失点をしてしまったり、今までどうやって投げていたかもわからなくなってしまうほどに。

投手を一度くびになり、外野手を守っていた時もあったそうで、そんな時も周りから野次を飛ばされたりして、人一倍苦しんだ時期がありました。

ご両親に「野球を辞めたい」と話したこともあったそうです。

 

 

肘の手術はせずに、試合にはほぼ出れなくなりながらも、それでも4年生の時は主将を務め何とか野球を続けてきた上重聡さん。

実は大学3年生の9月には大学で野球を引退することを決めていたそうです。

就職活動が順調に進んでいくなか、引退することをどうしても言えなかった相手がいたそう。

それは、やはり「松坂大輔」さんでした。

引退することを聞いた松坂大輔さんは本気で怒ったそうです。

「同じ舞台で投げる日を待ってた、と言われたんです。一番しんどかったですね」

引用:4years

 

松坂大輔さんは高校卒業後すぐにプロ野球の道に進んでいました。

上重聡さんが大学卒業してプロ野球で再会することを、松坂大輔さんもとても楽しみに待っていたんですね。

 

上重聡さんもプロ野球で松坂大輔さんと投げ合うことを目標にしてきました。

松坂大輔さんの「待っていた」という言葉に、その目標が、その夢が自分だけのものではなかったんだと思ったそうです。

それだけ松坂大輔さんにとっても上重聡さんの存在は大きいものだったということですよね。

 

 

 

☆上重聡さんの著書です!

 

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上重聡は日テレアナウンサー

上重聡さんはみなさんご存じの通り、日テレのアナウンサーです。

高校時代にPL学園の投手だった高校球児ということよりも、アナウンサーといった印象の方が今では強いでしょうかね。

アナウンサーを目指したのは、アナウンサーなら野球と関われる可能性が高いという気持ちがあったそうです。

幼い頃からテレビでプロ野球観戦をし、プロ野球選手の真似をして素振りやシャドーピッチングなどをしていたことも影響しているそう。

ずっと実況中継を聞いていたので、自然にイメージできたとか。

それでも人前で話すことは得意ではなかった上重聡さん。

高校時代になるとインタビューなども受ける機会があり、事前に何度も質問を想定して受け答えの練習をしていたそうです。

そして幼い頃から野球だけではなく、英語を習ったり、塾にも行っていたことが、アナウンサーになれたことにも繋がっていると上重聡さんは話していました。

お母さまの教育方針だったそうです。

就職活動で勉強なども必要になってきますもんね!

野球と両立というのは本当にすごいですね!!

 

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まとめ

以上、上重聡さんの高校野球の甲子園の成績、ライバル松坂大輔さんと17回延長を戦った試合についてや、なぜ野球を辞めてしまったのかの理由についてでした。

野球のエリート街道まっしぐらだったのかと思ったのですが、最初からエースという状態ではなく、努力や苦労をたくさんして勝ち取ってきたんですね。

数年前のことですがアナウンサーの立場としてちょっとしたトラブルがあり、当時担当していた番組を降板したりなどもしていましたね。

私は上重聡さんの幼馴染という方の講演会を聴きに行ったことがあり、その時上重聡さんのことを「とっても優しくて、本当に良い子」という話をしていました。

講演をしていた方も本当に素敵な方ということもあり、もちろんそれだけではありませんが私は今までと変わらず上重聡さんを応援しています^^

人を潰すではなく、応援していけたら最高ですね。

これからもアナウンサーとして、また野球する姿も観れることを楽しみに応援しています!!

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