2021年のシーズンを持って、現役プロ野球選手を引退した松坂大輔さん。
引退試合の最後の投球も、すでに満身創痍だったようで何とか投げ抜いたようです。
引退セレモニーでは、イチロー選手が登場し花束を渡していましたね。
松坂大輔さんは高校時代から本当にすごい選手でした。
野球ファンのみなさんはおわかりかと思いますが、野球にあまり詳しくない方にも松坂大輔さんの高校時代の凄さをぜひ知って欲しいと思い、
今回は松坂大輔さんの高校時代の成績や球速や打順などについてまとめてみました。
高校時代に松坂大輔さんとバッテリーを組んでいたタレントさんについてや、松坂大輔さんの甲子園の伝説についても記載していますのでぜひ読んでみてください!!
松坂大輔のプロフィール
参考:NBP
松坂大輔さんの名前の「大輔」は、元プロ野球選手の荒木大輔さんが由来のお名前だそうです。
松坂大輔さんが由来で、お子さんに「大輔」と名付ける人も多かったと思います。
大輔は代々受け継がれていくような名前になっていますね(^^)
松坂大輔の出身高校は横浜高校
松坂大輔さんの出身高校は神奈川県の横浜高等学校です。
横浜高校の硬式野球部は甲子園出場回数が、2021年11月現在で春夏合わせて34回!!
春の選抜は16回、夏の甲子園は18回の出場歴があります。
そのうち全国制覇は5回!!
昭和の時代から令和まで常に強豪校であり、プロ野球選手も多く輩出しています。
高校野球の名門校、甲子園の常連校の横浜高校野球部について紹介します。
横浜高校の野球部の監督
横浜高校を長い間、甲子園に導いてきた監督は渡辺元智(わたなべ もとのり)さんです。
1968年から2015年までの48年間を横浜高校で監督として横浜高校を率いてきました。
松坂大輔さんたちも渡辺元監督の元、高校野球に打ち込んできました。
渡辺元監督と共に20年以上横浜高校を甲子園に導いてきた方には、部長の小倉清一郎さんがいらっしゃいます。
渡辺元監督は精神面や人間性についてを、小倉元部長は野球の技術面についてを担っていたようです。
選手たちは渡辺元監督の元で野球をやりたいと思うと同時に、小倉元部長のもとでも指導を受けたいと入部してきた選手も多いそう。
渡辺元監督と小倉元部長は退任する時期については、「一緒に横浜高校野球部を退任しよう」と話していたそうで、
2014年に小倉元部長、2015年に渡辺元監督が横浜高校野球部を退任しています。
横浜高校の野球部の監督の現在
2021年12月現在の横浜高校の野球部監督は、「村田浩明」監督です。
年齢は35歳だそうで、とても若いですよね^^
村田監督も横浜高校出身で、同期には涌井秀章投手(2022年7月時点で東北楽天ゴールデンイーグルス所属)がいて、横浜高校時代は涌井投手とバッテリーを組んでいたそうですよ!
村田監督の前に平田徹さんが2015年から2019年まで監督に就任していましたが、選手に対して暴言などがあったことを理由に解任されています。
平田さんは監督に就任する前にはコーチとして横浜高校野球部を支え、渡辺元監督や小倉元部長と共に野球部の指導にあたっていた方です。
平田元監督は感情的に厳しく叱ってしまった部分があると振り返り、反省を生かして現在は少年野球の指導をしながら、YouTubeなどにも出演しているそうです。
横浜高校の野球部に入部するには
横浜高校の硬式野球部は誰でも入部できるわけではないと聞いたことがあります。
横浜高校の野球部に入部したい場合は「スカウト」か、中学時代に入部テストの「セレクション」を受けて入部許可がないと入部できないと。
横浜高校に一般入試で入学できたから野球部に入部できるわけではないようです。
一般入試でも入部できるという情報も目にしたことがありますが、一学年の部員数は20名前後のようで人数制限をしているのだと思います。
こういったことから、誰でも入れるわけではないという情報の方が有力だと感じます。
スカウトだけでも全国各地から優秀な選手たちが集まります。
なのでスカウト以外で横浜高校の野球部に入部したい場合は、事前に自ら野球部に自身を売り込まなければなりません。
横浜高校出身で現在メジャーリーグに所属している筒香嘉智選手や日本ハムファイターズの近藤健介選手などは、横浜高校の監督陣からスカウトの声がかかったわけではありません。
自ら横浜高校に入部したいと連絡し、セレクションを受けて横浜高校の野球部に入部しているようですよ。
中学時代にすでに全国的に有名な選手たちが集まっているので、その中で野球をやっていくことはそう簡単ではないことですよね。
松坂大輔さんたちの「松坂世代」に憧れて入ってきた部員も多く、筒香さんもその一人です。
松坂大輔の高校時代の成績は?
松坂大輔さんの高校時代の成績をまとめてみました。
・夏の大会で甲子園に出場!3回戦で敗退
◎1997年:高校2年生
・秋季神奈川大会で優勝
・関東大会で優勝
・第28回明治神宮大会で優勝
◎1998年:高校3年生
・第70回春の甲子園に出場!全国制覇!
・春季神奈川大会で優勝
・関東大会で優勝
・第80回夏の甲子園に出場!全国制覇!!
・第53回かながわ・ゆめ国体で優勝!
簡単に箇条書きで記載してみました。
松坂大輔さんは高校1年生の時は試合に出場していたかはわかりませんが、横浜高校のエースとなったのは1997年高校2年生の秋です。
そこからなんと公式戦44連勝という記録があるそうです!!
明治神宮大会、選抜高校野球大会、全国高校野球選手権大会、そしてかながわ国体と、4冠制覇も成し遂げており、前人未踏だそうですよ!!
松坂大輔さんはその凄さから、「平成の怪物」と言われていました。
そして松坂大輔さんの代のことを、「松坂世代」と呼ばれるほどに、その代を代表する選手でした。
でも、最初からスムーズに平成の怪物と呼ばれる投手になったわけではありません。
高校2年生の秋に新チームとなり、チームのエースとなった松坂大輔さん。
秋から44連勝をスタートしていく直前の夏の神奈川大会が、松坂大輔さんの大きな転機となっていると言われています。
1997年高校2年生の夏。
神奈川大会の準決勝で横浜商業高校と対戦しました。
9回裏で2-1で勝っていたところ、スクイズを外そうとして投げた投球がワイルドピッチの暴投となってしまい、サヨナラ負けを喫してしまいました。
松坂大輔さんは高校2年生で、高校3年生は負ければ引退という試合でした。
この時の挫折から、松坂さんは意識が変わっていったと言われています。
このサヨナラ負けが、「平成の怪物」を創ったきっかけとなったようです。
当時の様子を渡辺元監督がこう話されていました。
「目に涙をためてました。そんな姿を見たのは、最初で最後。勝っても見たことがありませんでした」。
引用:日刊スポーツ
この試合の挫折があったからこそ、松坂大輔さんはそこから公式戦44連勝を達成。
高校3年生の夏の甲子園は、多くの人に大きな感動を与えました。
松坂世代といわれる世代は、本当に素晴らしい選手が多く、横浜高校以外の他の学校の選手もとても強かったのです。
多く知られているのが、高校3年生夏の甲子園のPL学園との対戦ですね。
延長17回を投げ抜いています。
詳しくは下の項目「松坂大輔の甲子園の伝説」で記載しています。
よかったらこのまま読み進めてくださいませ(^^)
松坂大輔の高校時代の球速は?
松坂大輔さんの高校時代の球速は、151km/hの記録のようです!
1998年高校3年生の夏の甲子園での球速になります。
松坂大輔さん以外にも、松坂世代の沖縄水産高校の新垣渚さんも同年に151km/hをマーク!
松坂大輔さんの世代は、全国的に本当に凄い選手ばかりいた黄金世代なんですよね(≧▽≦)
151キロ 松坂 大輔 横浜 98夏
〃 新垣 渚 沖縄水産 98夏引用:日刊スポーツ
球速をスピードガンで計測をできるようになったのは1980年代に入ってからだそう。
1980年以前の計測はスピードガンが定着していないとのことで、150km/hを超えた高校生はいたのか確かなことはわかりません。
1980年からスピードガンでしっかり計測できるようになってから、高校生が150km/hを超えたのは松坂大輔さんが初めてのようでした。
本当に「平成の怪物」ですよね(≧▽≦)
今でこそ150キロは珍しくないが、本格的に計測が始まった80年を起点にすると、98年春に松坂(横浜)が初めて150キロに到達するまで18年かかった。
引用:日刊スポーツ
松坂大輔の高校時代の打順は?
松坂大輔さんは高校時代に絶対的なエースでしたが、打撃もこれまた凄かったのです!
打順は「4番」だったのです!エースで4番!!
しかも全国制覇をするようなレベルの、日本のエースを背負うようなレベルのエースであり、打順も4番って…
凄過ぎませんか?!(≧▽≦)
それは「怪物」って言われますよね。
松坂大輔の高校時代のバッテリー!キャッチャーは誰?!
松坂大輔さんが高校時代にバッテリーを組んでいたキャッチャーは2名います。
松坂大輔と上地雄輔の関係はバッテリー!
松坂大輔さんと高校時代にバッテリーを組んでいた一人は、現在タレントの「上地雄輔」さんです。
上地雄輔さんは松坂大輔さんの一つ上の学年です。
上地雄輔さんは中学時代に38校からスカウトを受けたほどの実力者です!
松坂大輔さんをしっかりリードしていた上地さん!
野球の天才です!
上地雄輔さんの高校時代の詳細記事はこちら⇩
松坂大輔とバッテリーで正捕手は小山良男
そしてもう一人は元プロ野球選手の「小山良男」さんです。
松坂大輔さんと同級生です。
上地雄輔さんが引退後に正捕手になりました。
松坂さんと小山さんの出逢いは、中学時代。
シニアの日本代表に選ばれ、一緒にプレーをしました。
小山さんはすでに進学先が横浜高校に決まっており、小山さんが松坂さんを横浜高校に誘ったことがきっかけで、松坂さんは横浜高校に進学することに!
小山良男さんがいなかったら、あの伝説の平成の怪物は生まれなかったかもしれませんね。
そんな小山さんは3年生になると主将を任されました。
日本代表にも選抜され、松坂さん以外の投手から信頼される捕手でした!
松坂大輔の甲子園の伝説!
松坂大輔さんの甲子園の伝説は本当にすごいです!!
当時の松坂さんに憧れて、野球を本格的に始めた選手や、横浜高校を目指した選手たちがたくさんいます。
今回は松坂大輔さんが高校最後の夏の甲子園での伝説の2試合を紹介します。
松坂大輔の甲子園準々決勝はPL学園!延長17回
松坂大輔さんが高校3年生の最後の夏。
甲子園に出場し、準々決勝で大阪のPL学園と対戦します。
PL学園とは、横浜高校は春の選抜甲子園の準決勝で対戦。
0-2で負けていた横浜高校ですが、3-2で逆転し全国制覇をしています。
春のリベンジに燃えるPL学園と、なんと延長17回まで!!
この熱い戦いは、涙なしには見られません。語れません!!
7回を4-4の同点で迎えた準々決勝。
PL学園が1点をリードすると、その次の回で横浜高校が1点を取り返す。
横浜高校が1点リードすれば、PL学園も1点を取り返す。
そうして延長16回には7-7に。
16回に1点を先制した横浜高校は、あと一歩で勝てるという時に、当時松坂さんと4番を争った後藤武敏さんがエラー送球をし、また1点取り返されることがありました。
打つ方も不調で、守備も不調だった後藤さん。
監督には「オマエとは縁を切る」と言われたほどだったそうですよ。
監督のこの発言、私は笑ってしまいました。ちょっとかわいいなぁっと^^
実は後藤さんの不調の原因は、腰を披露骨折していたからだったのです(T_T)
腰が痛いと痛み止めを打っていたそうなのですが、監督やメンバーは後から腰を骨折していたと知ったそう…凄過ぎますね。
後藤はひどく腰が痛く、ずっと痛み止めをうっているのも知っていましたが、それにしてもこの試合は、ことごとくブレーキでね。打てず、バント失敗もあり、16回の守備では、監督に”オマエとは縁を切る!“とまでいわれてね。また、それを引きずるタイプなんです。でもこれはあとでわかったことですが、後藤は腰の骨が折れていたんですよ。ふつうでは考えられない悪送球だったのは、足腰が弱くなっていたんでしょう。
引用:FRIDAY
結局16回も追いつかれて同点で迎えた17回。
翌日に再試合が頭をよぎっていた松坂大輔さんですが、ベンチで当時のチームメイト常盤良太さんに肩をたたかれこう声をかけられたそうです。
「オレが絶対打ってくるから」っと。
そしてなんと常盤さんはその言葉の通り、ホームランを打ったのです!
走者が出ていたので、「2点」の追加点!!
これが決定打となり、17回裏の70人目の打者をおさえ横浜高校は勝利を収めました。
それでもなんとかチェンジになってベンチに戻ると、”ああ、18回引き分け再試合(当時・のち15回)かな“というのが頭をよぎりました。リードするたびに追いつかれ、オレはなにやってんだろ……と沈んでいると、常盤(良太)がポンと肩をたたくんです。”オレが絶対打ってくるから“と。これはホントなんですよ。
引用:FRIDAY
真夏の暑さの中、松坂大輔さんは1回から投げ続け、延長17回までひとりで投げ抜いたのです。
それほどPL学園も強く、簡単に倒せる相手ではありませんでした。
試合は3時間を超え、松坂大輔さんの投球数は250球に到達していました。
激闘を制した横浜高校。
本当にこの話を聞くと目頭が熱くなります。
当時、身体を壊さなくて本当に良かったと心から思いました。
だってまだ準々決勝ですよ。
事実上の決勝戦だったかもしれませんが甲子園ですから、全国の強豪校しか出られず、勝ち残ることもできません。
まだ準決勝、決勝と2試合残っていました。
本当に素晴らしい試合でした。
PL学園の投手は、現在日本テレビアナウンサーの上重聡さんです!
上重聡さんの高校時代の詳細についてはこちら⇩
松坂大輔の甲子園準決勝は明徳義塾!
準々決勝でPL学園と延長17回の激闘を制した翌日に、さっそく準決勝でした。
準決勝も強豪校、高知県の明徳義塾高校。
さすがに前日に炎天下の中、3時間37分250球を投げた松坂大輔さんは先発ではありませんでした。
決勝のことも考えて、体力回復と温存に。
でも、守備でレフトに入っていました。
横浜高校は2年生が代わりに投げる事になったのですが、なんと7回が終わってみると0-5で負けています。
8回の表には0-6になり、残る攻撃は2回。
8回の裏の攻撃に選手を送り出す時、当時の渡辺監督は、初めて「負け」を意識したそうです。
もう最高のメンバーで負けて帰ろうと思ったそう。
そして笑顔で選手にこう話しました。
「今までプレッシャーもあってつらい思いもしてきただろう。すべてを忘れて、あと2イニングは野球を楽しんでこい。甲子園を楽しんでこい」
引用:ベースボールONLINE
その言葉を聞いた選手たちは、なんと8回の裏に4点も取返したのです!!
そして9回の表。守備に回っていた松坂大輔さんが腕のテーピングを取り、マウンドへ。
球場は大歓声に!!
9回の表を3人できっちり抑え、最後の攻撃へ。
2点を追う場面で、今まで不調だった後藤さんが2点タイムリーを打ちなんと同点に!!
そして追加で1点を入れて、なんと逆転サヨナラ勝ち!!
8回の表で0-6だった横浜高校。
監督さえも、試合中に初めて負けを意識した試合。
後藤さんは当時のことをこう話しています。
「それまで監督は『ここで負けたら、県大会や甲子園で負けていった高校に申し訳ないだろ。ここでは勝たないとダメなんだ!』とずっと言っていたのですが、8回裏が始まるとき、急に笑顔になって『いいか、残り2イニングで6点。計算上は無理だ』と言い出したんです。そして、その言葉。それを聞いて涙が……」
引用:ベースボールONLINE
勝ち負けにこだわらず、もう力を抜いて野球を楽しんでこいといった監督の言葉に、
全ての総力が、本当の底時からが引き出された試合でした。
まとめ
以上、松坂大輔さんの高校時代の成績や球速や打順やバッテリーに、甲子園の伝説についてでした。
数々の記録を達成した松坂大輔さん。
その直前では大きな挫折を味わっていたんですね。
そこから必死で力をつけて、伝説の試合に!!
本当に松坂世代は、横浜高校以外にもレベルの高い学年でした。
なんせ、松坂大輔さんと同等に戦っていたのですから。
私は松坂大輔さんの高校時代のことを聴くと、感動して目頭が熱くなります。
本当に感動をありがとうございました。
長い間、プレイヤーとしてお疲れ様でした。
今後はプレイヤーではなく、別の道での活躍も楽しみにしています(^^)
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