お正月の時期には毎年楽しみにしている「夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル」!
石橋貴明さんが毎年「チーム帝京」として強豪を相手にリアル野球盤で戦っていますよね。
石橋貴明さんの野球姿はスポーツ王の中でのバッティングくらいしか観れないので、野球の実力はどうなのでしょうか。
高校時代もどんな選手でどこのポジションだったのか、成績や甲子園には出場をしているのでしょうか。
今回は、石橋貴明さんの野球の実力、高校時代のポジションや成績についてや甲子園出場してるのかなど調べてみました。
石橋貴明のプロフィール
引用:exciteニュース
2021年11月現在の年齢は60歳の石橋貴明さん!
身長は182cmもあるんですね!!
大きいだろうなっとは思っていましたが、実際の数字を見てなるほど~っと!
とんねるずは、木梨憲武さんも石橋貴明さんと同じ高校出身ですよね。
木梨憲武さんはサッカー部。
石橋貴明さんはお兄さんが野球をやっていたことから、いつの間にか石橋貴明さんも野球をやっていたそうです。
石橋貴明の出身高校は帝京高校
石橋貴明さんの出身高校は東京都の帝京高校というのは有名ですよね!
毎年お正月の番組「夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル」でも、「帝京魂」という言葉が有名になりました。
帝京高校は野球部の名門校。
今まで甲子園には春14回、夏12回ほど出場しており、甲子園での優勝は3回ほど!!
プロ野球選手も多く輩出しており、20名以上いる学校です。
石橋貴明さんは1977年に入学しています。
1972年から約50年間、帝京高校の監督をしていた前田三夫監督は2021年の夏に引退。
50年間同じ学校で指揮を取っていたというのは本当にすごいですよね!
前田元監督は現在72歳です。
石橋貴明さんが入学した当時の前田元監督の年齢は22歳!!
大学を卒業後にすぐに監督に就任したようです。
年齢が近い高校生に指導するというのは、大変なことでもあったのではないかと感じます。
石橋貴明さんが在学中の帝京高校の成績については後程紹介しますが、前田元監督が就任した当時の帝京高校は強豪校ではありませんでした。
就任した際に、甲子園に行こうと部員に話すと笑われたほど…。
部員からして甲子園は遠い遠い存在だったんですね。
そんなスタートだった帝京高校を春夏通算26回の甲子園出場を果たし、全国制覇も3回もするほどの強豪校に育てた前田元監督。
前田元監督はかなり厳しい練習だったそうです。
就任してからたった2週間で、40人いた部員が4人になってしまったほどに…
残った4人の部員のかたも凄いですよね!!
就任は72年だった。あいさつで「甲子園に行こう」と呼びかけると、部員に笑われたという。練習開始から2週間後には約40人いた部員が4人に減った。新監督には、先の見えないスタートだった。それでも78年のセンバツに選ばれ、初めて甲子園の土を踏んだ。
引用:日刊スポーツ
甲子園という言葉に笑いが出た部員に対して、怒りすら覚えたとも話していました。
そんな部員の姿に、何としても甲子園に行くっと一気にスイッチが入った前田元監督。
そしてなんと、2週間の練習で残った4人のうちの一人は、石橋貴明さんのお兄さんでした!!
野球部に残った4人は、新入生が入部してやっと試合に出られるように。
前田元監督とともに4人で毎日練習を積み重ねていったんですね。すごい4人です!!
最後まで残った4人のうちの1人が、とんねるず石橋貴明の兄だった。「体は大きかったけど、貴明と一緒で硬い。いかり肩でね。4番ファーストでしたね」。4月に新1年生が入学すると、ようやく試合ができる人数がそろった。
引用:日刊スポーツ
前田元監督はただ厳しいわけではありませんでした。
この残ってくれた4人のためにも何かしたいと思い、夏の大会直前には前田元監督の自宅近くで合宿生活を一か月ほど送らせたそう。
毎日の朝や夜のご飯の支度に、お昼のお弁当も作って持たせて…
お給料も野球部にほとんど費やしていったそうです。
そんな生活でも前田元監督は全く苦ではなかったと話していました。
本当に野球が好きで、みんなのために何かできることが好きだったのでしょう。
やはり愛情があるからこその熱血なんですよね。
石橋貴明さんの代も当初は50人ほどいた部員ですが、3年生になると13人にまで減っていたそうです。
最後まで残った13人の絆は今でも続いているそうで、一緒に高校時代を乗り越えてきた仲間というのは本当に大切な存在ですよね。
2021年の秋からは新監督の金田優哉監督として帝京高校は再出発しています。
金田監督は2021年11月現在36歳。
これからの帝京高校もまた楽しみですね(^^)
石橋貴明の高校時代のポジション
石橋貴明さんの高校時代のポジションは、投手でした!
高校2年生の時から調子が上がってきており絶好調だったようで、監督からも良い評価を受けていた石橋貴明さん。
秋の大会ではベンチ入りの予定!!
ですが練習をさぼっているところを見つかってしまい、初のベンチ入りは叶わなかったという話を聴いたことがあります。
しかもさぼっていたのは、当時の喫茶店で流行っていたインベーダーゲームをしていたところを見つかってしまったとか!
インベーダーゲームといえば、高校時代に野球部の先輩からリアルインベーダーゲームをさせられていた野球部出身の芸人さんがいたような!!
あっ、こちらの方です⇩
石橋貴明さんは高校3年間を振り返り、帝京高校は東京で1番練習していた学校だと思うと話しており、とても厳しい練習だったことがわかります。
社会人になって辛いことがあっても、高校野球の練習より楽だと思えるほど帝京高校の野球部は厳しかったようです。
当時は時代的にも「水は飲んではいけない」と言われていたので、厳しい練習のうえに水も飲めない高校野球の練習。
高校野球を通して精神力もかなり鍛えられたようですよ。
「あれだけ厳しい練習に耐えられたら、社会人になって辛いことがあっても高校の時の練習より楽だと思うので乗り越えられます。そういう精神力は仲間とともに培っていきましたね」
引用:マイナビニュース
石橋貴明の高校時代の成績は?甲子園出場?
石橋貴明さんの高校時代の成績はどうだったのでしょうか。
甲子園には出場しているのか調べてみました。
・夏の東東京大会で決勝に進出!4-12で早稲田実業に敗退。
◎1978年:高校2年生
・春の選抜甲子園に出場!1回戦敗退。
・夏の東東京大会で決勝に進出!10-13で早稲田実業に敗退。
◎1979年:高校3年生
・夏の東東京大会で4回戦敗退。
石橋貴明さんの代が入学した年に、帝京高校は夏の東東京大会で初めて決勝に進んだようです。
前田元監督が就任してたったの5年で決勝まで行くチームを作り上げてきたのですね。
それまでは勝ち進んでも、準々決勝や準決勝に数回。
しかも1977年と1978年と2年連続で東東京大会の決勝に!!
残念ながら2年連続で早稲田実業に負けてしまい、夏の甲子園には出場できませんでした。
石橋貴明さんが高校1年生の春、新高校2年生の春の選抜甲子園に帝京高校は選ばれて甲子園に出場しています。
石橋貴明さんはメンバーではありませんでしたが、練習のサポートとして甲子園の土を踏んでいます。
その際に土をそっと持ち帰ったそうです。
ですが、その甲子園の土は母親にアパートの裏に撒かれてしまったとか…( ゚Д゚)
こんなエピソードを持っているというのは、さすが石橋貴明さんですよね!!
「それはきっちり持って帰りました。ちょっと先輩の目を盗んで、スパイク袋に入れて。その日雨だったんで、家に帰って、乾かすために、ブルーシートにきれいに並べていたんです。そしたらうちのおふくろが『何だこの土って』、パーって。オレの大事な甲子園の土は、おふくろがまいてしまって、うちのアパートの裏に。痛恨です」
引用:日刊スポーツ
石橋貴明の野球の実力は?
ここまで石橋貴明さんの高校時代についてみてきました。
石橋貴明さんが在学中の帝京高校は、選抜甲子園に出場したり、東東京大会で決勝に進出するなどレベルの高かったことがわかりました。
石橋貴明さん自身の野球の実力はどうだったのでしょうか。
石橋貴明は帝京でレギュラーになったの?
石橋貴明さんは帝京高校時代に、レギュラーにはなっていません。
控え投手だったのですが、ポジションのところでもお話ししましたが、高校2年生の頃から調子が良かったようで、レギュラーメンバーの練習をしていたようです。
レギュラー候補の中に入っていたということですよね。
なので石橋貴明さんはとっても良い線はいっていたのではないでしょうか。
2年の秋は初めてベンチに入りました。
3塁コーチャーとしてでしたが!
高校3年生になってエースの可能性が出てきた石橋貴明さん。
高校3年の春には、ブルペンで投げて良い選手だけが持っているピッチングボールを受け取り、いよいよエースとして公式戦に登場かと思われたその時。
帝京高校は春の東京都大会に出場ができなくなってしまいました。
何があったのか詳しくはわかりませんでしたが、野球部を辞めた部員が何かをしたのか言ってしまったのか帝京高校は大会出場を辞退せざるを得ませんでした。
それでも残された夏に向かって練習を積み重ね、ピッチングボールも持たされたままだった石橋貴明さん。
エースだった後輩が野球部を辞めて抜けてしまい、石橋貴明さんがエースナンバーを背負う可能性が高まっていた頃に出来事が起きます。
雨の日の練習でダッシュのトレーニングの指示があったのですが、石橋貴明さんたちはダッシュのトレーニングはせずに、
全員でサッカーをしていたそうで、それを監督に見つかってしまいました。
「雨の日で、『走っておけー』っていう時に、みんなでサッカーやってたら、オレだけ見つかっちゃって(笑い)。監督が入ってきたのを、1人だけ知らない方向を向いていて。みんな蹴らないから、『おい、早く蹴れよ』って言って、パッと振り返ったら、監督がいて『お前何やってるんだ』って。
引用:日刊スポーツ
ピッチングボールも取り上げられて、レギュラー練習のメンバーからも降格になってしまい、
おまけに練習もさせてもらえず、ずっと座らされていたそうです。
そのままチャンスをもらえぬままの高校最後の夏となってしまったそうな(T_T)
「最後の夏、2年生のエース級がやめて1番背負いそうになって“おっ、いいねえ、1番だな、このままだと俺”って思ったのに、雨の日にダッシュしとけって監督に言われたのに全員サッカーやってて、俺だけGKやってて監督が入ってきたのを知らずに“早く蹴ろよ”って言ったら(監督に)“お前何やってんだ”って言われて次の日からレギュラー練習下ろされた」
引用:スポニチ
おまけに石橋貴明さんがインベーダーゲームやサッカーなどの遊びに意識が向いていた間に、
石橋さんの2つ後輩に元プロ野球選手になった伊東昭光さんが入学していました。
伊藤昭光さんは中学時代から全日本のエースになっており、帝京高校に入学してからも伊藤昭光さんがエースの座に!!
なおさら、石橋貴明さんの出番はなくなってしまいました。
石橋貴明は帝京高校の秘密兵器だった?!
石橋貴明さんは「帝京高校の最後の秘密兵器」と言われていたとも話していました。
実力はあったけれどあと一歩のところでメンバーには入れなかったので、秘密兵器と言われていたのでしょうか。
本当に当時秘密兵器と言われていたのかはわかりませんが(^^;)
ただ確かに高校2年生、3年生とレギュラーでエースの座が視野に入っていたことがわかりますよね。
野球と関係ないところでレギュラーの候補から外されていましたが(^^;)
帝京高校時代に秘密兵器と言われてたけれど、レギュラーになることはなく、秘密兵器のままで終わってしまったということですよね(T_T)
野球じゃなくて応援では「帝京に石橋あり」と言われて、「帝京の最後の秘密兵器」が秘密兵器のまま終わったんです。
引用:朝日新聞
このことから、恐らく実力はあったのではないかと思います。
体格も良かったと思いますし、レギュラーとして入れるほどのちから、潜在能力はあったのではないかと。
前田元監督が話していましたが、石橋貴明さんは身体が硬かったとのことなので、そこが伸び悩んだ部分でもあるのかもしれません。
他にもやんちゃな性格が野球に一直線に向かうことをちょっと阻んでしまったかもしれませんね。
石橋貴明さんは高校3年生の最後の試合で攻玉社に0-4で負けた際に、真面目に野球に取り組んで来ればよかったと思ったそうです。
高校野球人生が終わるという瞬間に、悲しみがこみ上げてきて泣いたそうです。
「あーオレ何やってたんだろうって。3年間何やってたんだろうって思って。最後グラウンドにいたかったなーと思って。もう号泣。3年生みんなで球場出てきて、お疲れって、言ったときに、13人号泣で。あー、もう少し真面目にやれば良かったなと、後悔先に立たず、というのは、まさにこのこと。
引用:日刊スポーツ
石橋貴明はプロ野球入団テストを受けていた?!
石橋貴明さんは高校卒業後は、ホテルマンとして働きます。
しかも「センチュリーハイアット東京」「ホテルオークラ」といったホテルに!!
すごいですね!
その後、芸能界に入っていくのですが、18歳の時に実はプロ野球の入団テストを受けていたそうです!!
その球団は「西武ライオンズ」。
しかも一次テストは合格し、二次テストに進んだそうです。
5、6球投げたところで「もういいです」と言われてしまい、合格はできなかったようなのですが。
一次テストに受かるだけでもすごいですよね!
体格も良くて、やはり素質があったのではないかと思います!
根本監督に投球を見てもらっていたんです。5、6球投げたら、『もういい』って言われました」と振り返った。
その上で「僕のプロ野球選手の夢は断たれたんですけど」と笑わせていた。
引用:スポーツ報知
まとめ
以上、石橋貴明さんの野球の実力、高校時代のポジションや成績についてや甲子園出場してるのかについてでした。
石橋貴明さんが高校時代から陽気で楽しいことが大好きだったんだろうなっと感じられました(^^)
インベーダーゲームをやりに喫茶店に行ってしまったり、サッカーをみんなでやっているシーンをリアルに思い浮かべることができましたよ(^^)
野球をもっと真面目にやっておけば良かったという気持ちも伝わってきて、そして同期の仲間を大切にしながら楽しく過ごしてきたことも伝わってきましたよね。
これからまた楽しみにしています!!
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